永禄3年(1560年)頃
野良田の戦い
- 暦
- 和暦・西暦併記
地点資料から年頃まで確認し、月日は補っていません。
浅井長政が六角方と戦った野良田の戦いを、肥田城跡という既存の代表地点からたどります。戦場全体を一点で示すものではありません。
関連テーマ
- 浅井氏(勢力・組織)
関連地点
肥田城跡
肥田城跡は戦いの舞台となった周辺地域を示す代表地点です。
17項目を監査済みのorder順に掲載しています。
この地域の既存地点とテーマから直接確認できる出来事だけを掲載し、時代全体を網羅しません。
永禄3年(1560年)頃
地点資料から年頃まで確認し、月日は補っていません。
浅井長政が六角方と戦った野良田の戦いを、肥田城跡という既存の代表地点からたどります。戦場全体を一点で示すものではありません。
肥田城跡は戦いの舞台となった周辺地域を示す代表地点です。
永禄5年~元亀3年(1562~1572年)
単日の出来事ではなく、一定期間の活動・攻防を示します。
敏満寺が浅井氏と織田方の攻撃を受けた期間を示します。寺域の活動と複数回の攻防を含むため、単日の出来事ではありません。
敏満寺遺跡は寺院勢力と戦国大名の攻防を伝える遺跡です。
資料から年まで確認できるため、月日を補っていません。
織田信長の近江侵攻により、六角氏の本拠であった観音寺城が軍事拠点としての役割を失った時期を示します。
観音寺城跡は六角氏の本拠と織田方の侵攻を伝える城跡です。
元亀元年(1570年)頃
おおよその年代で、正確な月日を断定していません。
京都と湖西を結ぶ経路を押さえた宇佐山城が、浅井・朝倉方との攻防の拠点となった時期を示します。
宇佐山城跡は志賀の陣に関わる山城全体の代表地点です。
元亀元年(1570年)頃
おおよその年代で、正確な月日を断定していません。
織田方の近江支配の一環として柴田勝家が長光寺城に配置された時期を示します。城域全体の代表地点です。
長光寺城跡は柴田勝家が配置された織田方の拠点です。
地点資料から年まで確認し、月日は補っていません。
織田・徳川方と浅井・朝倉方が戦った姉川の戦いを、三田村氏館跡という既存地点からたどります。戦場全体を一点で示しません。
三田村氏館跡は姉川の戦いに関わる周辺の代表地点です。
地点資料から年まで確認し、月日は補っていません。
織田信長軍による延暦寺焼き討ちを、現在の根本中堂からたどります。現在の建物は再建であり、当時の建物や焼き討ち範囲そのものではありません。
現在の根本中堂は再建建物で、戦国期の寺域を一点で示すものではありません。
資料から年まで確認できるため、月日を補っていません。
明智光秀が近江支配の拠点として坂本城を築いた開始年を示します。表示地点は失われた城域の代表位置です。
坂本城跡は湖上交通と近江支配に関わる失われた城域の代表地点です。
元亀3年(1572年)頃
おおよその年代で、正確な月日を断定していません。
金森の寺内町が織田方と対立した時期を示します。表示地点は善立寺・因宗寺付近で、寺内町全域の境界を示すものではありません。
寺内町跡の代表位置から宗教自治と織田方の対立をたどります。
元亀3年~天正元年(1572~1573年)
単日の出来事ではなく、一定期間の活動・攻防を示します。
織田方が虎御前山を陣城として小谷城を包囲した期間を示します。単日の戦闘ではなく、継続した包囲活動です。
虎御前山城跡は小谷城包囲のために整備された陣城の代表地点です。
資料から年まで確認できるため、月日を補っていません。
小谷城の落城と浅井氏滅亡を、山城全体の代表地点からたどります。座標は城域や攻防範囲の中心を断定するものではありません。
小谷城跡は浅井氏の本拠と落城を伝える山城全体の代表地点です。
資料から年まで確認できるため、月日を補っていません。
織田信長軍による百済寺焼き討ちを、現在の寺院からたどります。現存建物を戦国期の建物そのものとは扱いません。
現在の百済寺は焼失後の再興を経た寺院で、当時の建物そのものではありません。
天正2年(1574年)頃以降
おおよその年代で、正確な月日を断定していません。
羽柴秀吉が長浜城を拠点に湖北支配を進めた時期を示します。現在の模擬天守は当時の建物ではありません。
長浜城跡は湖北支配の拠点を示しますが、現天守は後世の模擬天守です。
天正4~10年(1576~1582年)
単日の出来事ではなく、一定期間の活動・攻防を示します。
織田信長が安土城を築き政治拠点とした期間を示します。城跡全体の代表地点で、現存建物を示す座標ではありません。
安土城跡は築城と政治拠点化を伝える城域全体の代表地点です。
資料から年まで確認できるため、月日を補っていません。
浄土宗と法華宗の宗論が浄厳院で行われた年を示します。資料から年まで確認し、月日は補っていません。
浄厳院は安土宗論の会場として伝わる既存地点です。
資料から年まで確認できるため、月日を補っていません。
本能寺の変後に安土城の主要部が焼失した年を示します。現在は城跡で、当時の建物は残っていません。
安土城跡は焼失した城の遺構を示し、当時建物そのものではありません。
資料から年まで確認できるため、月日を補っていません。
羽柴秀吉方と柴田勝家方の戦いを、賤ヶ岳山頂と玄蕃尾城跡からたどります。両地点とも戦域全体を一点で示しません。
玄蕃尾城跡は柴田方の本陣として整備された山城全体の代表地点です。
賤ヶ岳山頂は戦場周辺をたどる代表地点で、戦域全体の中心を断定しません。