御陵衛士屯所跡
- 分類
- 新選組・御陵衛士
- 時期
- 慶応3年(1867年)
- 現在地と歴史位置
- 公的データベースに記録された史跡碑の現在位置
- 史跡の状態
- 史跡表示のみ
- 位置精度
- 高
新選組を離れた伊東甲子太郎らは慶応3年、孝明天皇陵を守る御陵衛士を組織し、高台寺塔頭の月真院を拠点としました。同年11月に伊東が新選組に殺害されて活動を終えるまで、隊士たちが本拠とした場所です。
位置について:京都市個別ページの世界測地系DMSを小数6桁へ変換。表示点は月真院前に設置された屯所跡の公式石標位置です。
根拠確認済みの幕末史跡36件を掲載します。説明文は公的・学術資料を照合して本プロジェクトが独自に作成したものです。
新選組を離れた伊東甲子太郎らは慶応3年、孝明天皇陵を守る御陵衛士を組織し、高台寺塔頭の月真院を拠点としました。同年11月に伊東が新選組に殺害されて活動を終えるまで、隊士たちが本拠とした場所です。
位置について:京都市個別ページの世界測地系DMSを小数6桁へ変換。表示点は月真院前に設置された屯所跡の公式石標位置です。
池田屋事件後の探索中、会津藩士と新選組が明保野亭で土佐藩士麻田時太郎を負傷させました。会津・土佐両藩の関係悪化を避ける過程で麻田と会津藩士柴司が自刃する結果となった事件の関連地です。
位置について:京都市個別ページのDMSを変換。ただし同ページは明保野亭旧地が石標よりやや北東と明記するため、周辺代表点として表示します。
位置精度は中です。表示点は公的資料に記録された碑・住所・範囲の代表点で、幕末当時の一点と一致するとは限りません。
八月十八日の政変で尊王攘夷派が京都政局から退けられると、三条実美ら七人の公卿は妙法院に集まり、長州へ下りました。紀念碑は、七卿落ちとして知られる政変後の西走と、王政復古まで続いた京都不在を記念します。
位置について:京都市個別ページの世界測地系DMSを変換。座標は七卿が立ち寄った妙法院内に建つ後世の紀念碑位置です。
霊明社では幕末に神葬祭が行われ、池田屋事件の死者や坂本龍馬・中岡慎太郎らが葬られました。この石碑は、遺体が霊明社へ運ばれる際に通ったとされる正法寺参道を示し、葬送と祭祀の歴史を伝えます。
位置について:京都市個別ページのDMSを変換。地点は葬送経路全体ではなく、霊明神社神葬墓地前に設置された現石碑位置です。
鳥羽離宮跡公園の秋の山付近では、京都へ進もうとする旧幕府軍と、鳥羽街道を守る薩摩藩兵が戦いました。大正元年建立の戦跡碑は、鳥羽方面の戦闘が戊辰戦争の発端となったことを後世へ伝えています。
位置について:京都市個別ページのDMSを変換。座標は広い戦場そのものの一点ではなく、鳥羽離宮跡公園内に現存する戦跡碑の位置です。
慶応4年1月3日、京都へ向かう旧幕府軍と進路を阻む新政府軍が小枝橋付近で衝突し、鳥羽・伏見の戦いが始まりました。小枝橋東詰の石標は、薩摩砲兵と旧幕府軍が戦った鳥羽方面の戦場を示します。
位置について:京都市個別ページのDMSを変換。橋や戦線は当時から変化しているため、現在の小枝橋東詰石標を戦場周辺の代表点とします。
位置精度は中です。表示点は公的資料に記録された碑・住所・範囲の代表点で、幕末当時の一点と一致するとは限りません。
鳥羽・伏見の戦いでは、御香宮周辺を守る新政府側の薩摩藩兵と、伏見奉行所や寺院に入った会津藩・新選組など旧幕府軍が対峙しました。桃陵中学校内の石標は、伏見方面で始まった戦闘の広がりを伝えます。
位置について:京都市個別ページのDMSを変換。戦場は広範囲であり、座標は桃陵中学校内の石標を代表点として示します。
位置精度は中です。表示点は公的資料に記録された碑・住所・範囲の代表点で、幕末当時の一点と一致するとは限りません。
鳥羽・伏見の戦いは南の淀方面へ移り、慶応4年1月5日には納所付近で旧幕府軍砲兵と新政府軍が激しく戦いました。多数の戦死者を出して旧幕府軍が敗走した戦場を記念する石標が、現在は納所会館前に移されています。
位置について:京都市個別ページのDMSを変換。石標は元の堤防上から現地へ移設済みのため、戦闘地点ではなく現在の記念碑位置として表示します。
位置精度は中です。表示点は公的資料に記録された碑・住所・範囲の代表点で、幕末当時の一点と一致するとは限りません。
伏見奉行所は伏見市街の行政と警備を担う幕府機関でした。慶応3年に廃止された後も、鳥羽・伏見の戦いでは会津藩や新選組など旧幕府軍の拠点となり、御香宮を中心とする新政府軍との戦闘で焼失しました。
位置について:京都市個別ページのDMSを変換。京都市観光協会も現在の団地内に碑がある旧奉行所跡として案内し、当時建物の非現存を確認できます。
伏見の船宿寺田屋では、文久2年に薩摩藩内の対立から有馬新七らが死亡する騒動が起き、慶応2年には坂本龍馬が伏見奉行所の捕方に襲われました。幕末の二事件で知られますが、現在の建物は鳥羽・伏見の戦い後の再建です。
位置について:京都市個別ページのDMSを変換。京都市観光協会も1868年の焼失と後年の再建を明記しており、当時の建物とは区別します。
島津家の伏見屋敷は西国と江戸を往来する際の滞在地でした。嘉永6年には篤姫が江戸へ向かう途中に宿泊し、慶応2年の寺田屋襲撃後には負傷した坂本龍馬が救出されて滞在するなど、伏見での薩摩藩の拠点となりました。
位置について:京都市個別ページのDMSを変換。現在は屋敷建物ではなく、歴史資料を基に旧地へ設置された案内碑の位置です。
新選組局長近藤勇は伏見奉行所から二条城へ軍議に赴いた帰途、墨染付近で御陵衛士の生き残りらに狙撃されました。左肩を負傷して伏見奉行所へ戻り、治療のため大坂へ退いたことで鳥羽・伏見の戦いには参加できませんでした。
位置について:京都市個別ページのDMSを変換。碑文も「この付近」とするため、墨染通周辺を示す代表点であり一点を断定しません。
位置精度は中です。表示点は公的資料に記録された碑・住所・範囲の代表点で、幕末当時の一点と一致するとは限りません。
寺田屋で伏見奉行所の捕方に襲われた坂本龍馬は、三吉慎蔵と脱出して川端の材木小屋へ身を隠しました。三吉らの通報を受けた薩摩藩側が龍馬を救出し、伏見の薩摩藩邸で負傷の手当てをした経緯に関わる場所です。
位置について:京都市個別ページのDMSを変換。材木小屋は濠川左岸南方にあったとされ、座標は大手橋近くの案内碑を代表点とします。
位置精度は中です。表示点は公的資料に記録された碑・住所・範囲の代表点で、幕末当時の一点と一致するとは限りません。
元治元年7月19日、長州藩家老福原越後は伏見藩邸から兵を率いて京都へ進み、禁門の変へつながる戦闘に入りました。敗走後に戻った藩邸は対立する諸藩から砲撃されて焼失し、現在は案内碑が旧地を示します。
位置について:京都市個別ページのDMSを変換。副碑が歴史地図と文書から藩邸位置を説明し、建物は禁門の変時に焼失したとしています。
伏見京橋周辺は鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍と新政府軍が激しく争った地域です。敗走する旧幕府軍が民家に火を放ったため伏見の町にも大きな被害が生じ、京橋北詰の案内碑が戦闘と市街地被害を伝えています。
位置について:京都市個別ページのDMSを変換。激戦地は京橋を含む南浜一帯であり、座標は京橋北詰の案内碑を代表点とします。
位置精度は中です。表示点は公的資料に記録された碑・住所・範囲の代表点で、幕末当時の一点と一致するとは限りません。
伏見の土佐藩邸は家臣の生活や実務の場として使われました。鳥羽・伏見の戦いでは藩主山内容堂が参戦を禁じる一方、板垣退助の指示を受けた一部藩士が新政府側で戦い、土佐藩の行動が分かれた状況を伝える地点です。
位置について:京都市個別ページのDMSを変換。座標は歴史地図等を基に伏見観光協会らが設けた藩邸跡石碑の現在位置です。
鳥羽・伏見の戦い前日の慶応4年1月2日、会津藩先鋒隊約二百名が伏見京橋に上陸し、伏見御堂を宿陣としました。翌日の伏見での戦闘では建物も損傷し、後世に建て替えられましたが、旧幕府側の駐屯拠点を伝えます。
位置について:京都市個別ページのDMSを変換。現在の建物は幕末当時のままではなく、改築・建替えを経た伏見別院前の石碑位置です。
薩摩藩は文久3年、相国寺近くの二本松に新たな藩邸を設けました。島津久光の上京後、八月十八日の政変や禁門の変などで薩摩藩が京都政局に関与する際の拠点となり、現在は同志社大学西門前の石標が所在地を伝えます。
位置について:京都市個別ページの世界測地系DMSを変換。同志社大学の年表も相国寺門前の薩摩藩邸跡への校地移転を記録しています。
京都守護職は文久2年に京都の治安維持を担う幕府の役職として設けられ、会津藩主松平容保が就任しました。文久3年末には現在の京都府庁付近に役宅が新築され、慶応3年の制度廃止まで政治と警備の拠点となりました。
位置について:京都市個別ページの世界測地系DMSを小数6桁へ変換。京都府資料も現在の府庁敷地を守護職上屋敷跡としています。
岩倉具視は和宮降嫁への関与を批判されて官を辞し、文久2年に岩倉家の菩提寺である霊源寺へ身を寄せて落飾しました。その後は岩倉村で蟄居しながら諸藩士と連絡を取り、王政復古へ向かう政治活動を続けました。
位置について:京都市個別ページの世界測地系DMSを小数6桁へ変換。表示点は霊源寺前に建つ岩倉具視旧蹟石標の現在位置です。
坂本龍馬は京都滞在中、材木商酢屋の中川嘉兵衛宅に身を寄せ、この場所を海援隊の活動拠点として用いました。薩長同盟や大政奉還へ向かう時期の龍馬の京都での足場を伝える地点で、河原町三条近くに石標があります。
位置について:京都市個別ページの世界測地系DMSを小数6桁へ変換。京都市観光協会の三条から四条界わい解説でも龍馬の活動地域を確認しました。
慶応3年11月15日夜、近江屋にいた海援隊長坂本龍馬と陸援隊長中岡慎太郎が刺客に襲われました。大政奉還後の新体制を模索していた両名が命を落とした事件で、現在の河原町通沿いに旧地を示す石標があります。
位置について:京都市個別ページの世界測地系DMSを変換。京都市観光協会の三条から四条界わい解説も近江屋跡として案内しています。
土佐藩を脱した中岡慎太郎は、薩長同盟の成立を支え、のちに陸援隊を組織しました。京都では土佐藩御用達の書林菊屋、鹿野安兵衛宅に身を寄せており、河原町四条近くの石標がその寓居地を伝えます。
位置について:京都市個別ページが示す世界測地系DMSを小数6桁へ変換。表示点は歴史建物ではなく現在の公式石標位置です。
元治元年6月5日、三条の旅宿池田屋で会合していた尊王攘夷派の志士を新選組が襲撃し、多数の死傷者が出ました。八月十八日の政変後に緊張が高まった京都を象徴する事件で、現在は三条木屋町近くの石標が旧地を示します。
位置について:京都市個別ページの世界測地系DMSを変換。京都府立京都学・歴彩館資料と京都市観光協会の地域解説でも事件を確認しました。
老中間部詮勝は安政5年、条約締結に反発する孝明天皇への対応のため上京し、当時寺町二条下るにあった妙満寺へ滞在しました。尊王攘夷派を取り締まる政治過程と関わる場所で、寺の移転後は石標が旧地を示しています。
位置について:京都市個別ページのDMSを変換。妙満寺は昭和42年に岩倉へ移転しており、表示点は移転前の寺地を示す石標位置です。
位置精度は中です。表示点は公的資料に記録された碑・住所・範囲の代表点で、幕末当時の一点と一致するとは限りません。
福井藩士橋本左内は藩主松平春嶽を支え、将軍継嗣問題で一橋慶喜擁立を周旋しました。京都滞在時は越前福井藩邸内に寓居し、安政の大獄で処刑されるまで政治活動に携わりました。石標は旧藩邸内の寓居跡を示します。
位置について:京都市個別ページの世界測地系DMSを小数6桁へ変換。現在の表示点は旧福井藩邸内の位置を示す公式石標です。
江戸から上洛した浪士組のうち京都に残った近藤勇や芹沢鴨らは、壬生の前川邸・八木邸を拠点に新選組を組織しました。八木邸は結成初期の屯所として使われ、現在の石標はその場所を示しています。
位置について:京都市個別ページの世界測地系DMSを変換。京都府立京都学・歴彩館資料も壬生と新選組の関係を公的記録から解説しています。
土佐勤王党を率いた武市瑞山は文久2年に山内容堂に従って上洛し、この地に住んで各藩士との交渉にあたりました。翌年の八月十八日の政変後に尊王攘夷派への圧力が強まるまで、土佐藩の京都活動に関わった寓居跡です。
位置について:京都市個別ページの世界測地系DMSを変換。京都市観光協会の三条から四条界わい解説も同地での武市の活動を説明しています。
越後出身の本間精一郎は尊王攘夷派として活動しましたが、志士仲間との対立を深め、文久2年閏8月20日に先斗町からの帰途で殺害されました。木屋町四条上る東側の石標が、京都政局の緊張を物語る遭難地を示します。
位置について:京都市個別ページの世界測地系DMSを小数6桁へ変換。事件当時の構造物ではなく、遭難地を示す現在の公式石標位置です。
開国論を唱えた松代藩士佐久間象山は、元治元年に幕命で京都へ入りました。同年7月11日、山階宮家からの帰途に木屋町通御池付近で尊王攘夷派の浪士に襲われて死亡し、後世の碑がその遭難を伝えています。
位置について:京都市個別ページのDMSを変換。碑文は実際の遭難地点を碑の正東52尺とするため、座標は事件現場ではなく現石碑位置です。
位置精度は中です。表示点は公的資料に記録された碑・住所・範囲の代表点で、幕末当時の一点と一致するとは限りません。
禁門の変に伴う火災が六角牢獄へ迫った元治元年7月20日、脱走を恐れた幕府側の役人により、平野国臣や古高俊太郎ら三十数名が処刑されました。石標は当時の牢獄跡と、この集団処刑の場所を伝えています。
位置について:京都市個別ページの世界測地系DMSを小数6桁へ変換。六角牢獄の建物は現存せず、現在は石標で旧地を示します。
長州藩士の吉田稔麿と久坂玄瑞は、文久2年に長州藩邸北側の法雲寺でそれぞれ謹慎生活を送りました。後に吉田は池田屋事件、久坂は禁門の変で命を落としており、石碑は両名が京都政局の渦中へ入る前の寓居を示します。
位置について:京都市個別ページに掲載された東経・北緯の世界測地系DMSを順序確認のうえ変換。座標は法雲寺前の現石碑位置です。
京都守護職となった松平容保の会津藩は黒谷の金戒光明寺を本拠とし、周辺に藩士を分宿させました。墓所には在京中に亡くなった藩関係者や鳥羽・伏見の戦いの戦死者が葬られ、現在も寺域で追悼が続けられています。
位置について:京都市個別ページの墓所前DMSを変換。金戒光明寺公式ページが寺域内の会津藩殉難者墓地の現存を確認しています。
岩倉具視は公武合体論への反発から文久2年に岩倉村へ退き、約5年間この旧宅を生活と政治活動の足場としました。蟄居中も公卿や諸藩士と連絡を取り、王政復古へ向かう構想を練った場所として国史跡に指定されています。
位置について:京都市個別ページの世界測地系DMSを変換。文化庁の文化遺産オンラインが同住所と国史跡指定を確認しています。
近江出身の古高俊太郎は京都で薪炭商を営みながら尊王攘夷派の志士を支援しました。元治元年6月5日に新選組へ捕らえられ、その取り調べが同日夜の池田屋事件につながったとされるため、邸址は事件の起点を伝えます。
位置について:京都市個別ページの世界測地系DMSを変換。京都市下京区役所の明治維新コースも古高の寓居と池田屋事件との関係を説明しています。
新選組から分かれて御陵衛士を率いた伊東甲子太郎は、慶応3年11月18日に油小路で新選組に襲撃されました。遺体を引き取りに来た同志も待ち伏せを受け、伊東を含む複数名が命を落とした場所です。
位置について:京都市個別ページの世界測地系DMSを変換。京都市下京区役所の明治維新コースでも本光寺前の殉難跡として案内されています。
現在の碑、再建建物、顕彰地が幕末当時の建物・事件現場と一致しない場合があります。位置精度、史跡状態、各地点の位置注意を合わせて確認してください。